体を形作る遺伝子が脳で記憶を根付かせることを発見!

1.  概要

 動物は1日を通して様々な記憶を獲得します。インパクトのある出来事や同じ経験の繰り返しにより、獲得した記憶は脳で固定化されて長期記憶として保存されます。しかし、長期記憶を固定化し維持する機構はまだ十分に理解されていません。東京都立大学大学院 理学研究科 生命科学専攻の坂井貴臣教授らの研究チームは、ショウジョウバエ(以下、ハエ)のapterousという遺伝子(ap)の変異体が長期記憶を形成できないことを発見し、その原因を明らかにする研究を行いました。apはハエの発生段階で翅や神経回路を形作るために必要な遺伝子として古くから知られています。この遺伝子の変異体が翅の形態異常を示すことからapterous(翅や翼がないという意味)と名付けられました(図1)。

 Apterousタンパク質(Ap)はChip タンパク質(Chi)と複合体を形成し、転写因子として働きます。体作りにはAp/Chi複合体による転写が不可欠です。しかし、体作りが完成した成虫になってもapは脳で発現し続けているにもかかわらず、その機能はよく分かっていませんでした。まず、研究チームはハエ脳でapの発現する場所を二か所突き止めました。記憶中枢であるキノコ体とよばれる細胞群と、約24時間のリズムを作り出すために必要な細胞群(時計ニューロン)です。遺伝学が発達しているハエの利点を生かし、最新の遺伝子発現技術を用いて解析したところ、時計ニューロンで発現するapは長期記憶の固定化に、また、キノコ体で発現するapは固定化した長期記憶の維持に必須であることが分かりました。さらに、キノコ体のChiはAp同様に長期記憶の維持に必須であったことから、Ap/Chi複合体によりキノコ体で新たなタンパク質が提供され続けることにより、長期記憶が維持されると考えられます。一方、時計ニューロンのChiは長期記憶には関与していませんでした。この結果は、時計ニューロンで発現するApにはChiに依存しない未知の機能があることを意味しています。

 長期記憶における時計ニューロンの役割を明らかにするために神経活動を抑制する実験を行ったところ、長期記憶を固定化できなくなることが分かりました。そこで、最新のex vivoイメージング技術(注1)を利用して解析したところ、時計ニューロンのApは抑制性の神経伝達物質GABAに対する反応を抑えており、長期記憶を固定化するためには時計ニューロンの活性が低下しないように調節する必要があることが分かりました。

 本研究により、Apには発現する細胞ごとに異なる機能があり、それらを併用して長期記憶の固定化と維持を制御していることが明らかになりました(図2)。ヒトを含む哺乳類にもapと同じ遺伝子が存在し、記憶に重要な海馬という脳領域で発現しています。今後、哺乳類のap遺伝子の研究が、ヒトの記憶メカニズム解明の手掛かりになるかもしれません。

本研究は、日本学術振興会科学研究費補助金(21H02528)、文部科学省科学研究費補助金新学術領域研究「シンギュラリティ生物学」(21H00434)、および住友電工グループ社会貢献基金の支援を受けて行われました。

 

 

2.    ポイント

■ 転写因子であるAp/Chi複合体はハエの体を形作る発生制御因子です。しかし、成虫になってもApは脳のキノコ体(記憶中枢)と時計ニューロンで発現していました。

■  時計ニューロンのApは長期記憶の固定化に、また、キノコ体のApは固定化した長期記憶の維持に必須でした。

■  長期記憶を維持するためにはキノコ体でAp/Chi複合体による新たなタンパク質の提供が必要であることが分かりました。時計ニューロンのApは、Chiに依存せず時計ニューロン活性を調節することで、長期記憶の固定化を制御していることが分かりました。

■  脳で発現するApは神経細胞腫ごとに異なる機能を持ち、それにより長期記憶の固定化と維持を制御していることが本研究で明らかになりました。

■  ヒトを含む哺乳類にもapとよく似た遺伝子が存在します。今回の発見は、ヒトの記憶メカニズムを解明する手掛かりになるかもしれません。

 

3.  研究の背景

 長期記憶の固定化や維持の分子メカニズムに関してはまだ十分に理解されていません。本研究では、体を形作るために必要であるap遺伝子が、長期記憶の固定化と維持の両方を制御しているという興味深い事実を明らかにしました。

 apはハエの翅の発生を制御する遺伝子として初めて見出され、その後の研究で、神経発生を制御していることが明らかにされてきました。一方、体作りが完成した成虫になってもapは脳で発現し続けていることから、発生制御以外の機能があると予想されたものの、脳で発現するapの機能はよく分かっていませんでした。

 

4.  研究の詳細

 特定ニューロンの遺伝子発現抑制実験や遺伝子回復実験により、時計ニューロンで発現するapは長期記憶の固定化に、また、キノコ体で発現するapは固定化した長期記憶の維持に必須であることが分かりました。次にChiと長期記憶の関係に注目して検証した結果、キノコ体のChiはApと同様に長期記憶の維持に必須でした。これらの結果から、Ap/Chi複合体がキノコ体で転写因子として機能することで新たなタンパク質を提供し、長期記憶が維持されると考えられます。一方、時計ニューロンにおいてChiの発現を抑制しても長期記憶の固定化や維持に影響が見られなかったため、時計ニューロンで発現するApにはChiに依存しない未知の機能があると予想されます。

 時計ニューロンの神経活動を抑制する実験を行ったところ長期記憶を固定化できなくなることが分かりました。時計ニューロンのapの発現を抑制しても長期記憶を固定化できないことから、apの発現抑制は時計ニューロンの神経活動を抑制している可能性が考えられました。ハエの時計ニューロンには抑制性の神経伝達物質GABAの受容体が発現していることがすでに知られています。興味深いことに、ap変異体の時計ニューロンではGABAに対する反応が野生型よりも過剰になっていました。また、ap変異体の時計ニューロンにGABA受容体を過剰に発現させると長期記憶を固定化できるようになりました。これらの結果から、長期記憶を固定化するためには時計ニューロンの活動が低下しないように調節する必要があり、Apはその役割を担っていると言えます。

 本研究により、Apは発現する脳神経細胞の種類ごとに異なる機能を持っており、それらを併用して長期記憶の固定化と維持を制御していることが明らかになりました。ハエの記憶はキノコ体に作られ、維持されていると考えられています。一方、時計ニューロンはハエの行動や生理機能の24時間周期を作り出すために必要であると考えられていましたが、本研究により長期記憶の固定化にも関与することが初めて明らかになりました。時計ニューロンがいかにしてキノコ体で作られる記憶を制御しているのかは未だ不明であり、更なる研究が必要です。

 

5.  研究の意義と波及効果

 加齢性の記憶障害では新しい記憶を固定化できず、すぐに忘れてしまうという弊害が問題となります。一方で、脳で固定化された長期記憶は簡単に忘却されず消去が困難であるため、トラウマ記憶のようなネガティブな記憶が残り続けてしまうという問題が生じます。長期記憶はいかにして固定化され、維持されるのか。その仕組みが明らかになれば、長期記憶の固定化を促進して加齢性記憶障害を緩和することや、トラウマ記憶を維持させずに消去することができるようになるかもしれません。本研究の成果は、将来的には医療、ヘルスプロモーション、アンチエイジング等の分野に貢献することが大いに期待されます。

 

【用語解説】

注1) ex vivoイメージング技術

 外科的に摘出した脳を利用し、人工的に作られた蛍光タンパク質により脳神経細胞の活動を測定する技術。

 

【発表論文】

タイトル:“Consolidation and maintenance of long-term memory involve dual functions of the developmental regulator Apterous in clock neurons and mushroom bodies in the Drosophila brain”

著  者:Show Inami, Tomohito Sato, Yuto Kurata, Yuki Suzuki, Toshihiro Kitamoto, and Takaomi Sakai.

雑誌名:PloS Biology (2021)

DOI: 10.1371/journal.pbio.3001459

 

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