歴史界の定説を覆す発見!京都産業大学日本文化研究所特別研究員が「蛤御門の名前の由来について」新説発表

京都産業大学

「禁門の変」の舞台となった京都御苑の「蛤御門」の由来について、京都産業大学日本文化研究所 長谷 桂特別研究員が、宝永の大火(1708年)以前から「蛤門」の名称が使われていたことを発見しました。さらに宝永をさかのぼる延宝5年(1677年)に「蛤門」が開いている状態で古地図に描かれている事実も突き止めました。

2016年5月26日

幕末に「禁門の変」(蛤御門の変)の舞台となった京都御苑の「蛤御門」の由来について、京都産業大学日本文化研究所 長谷 桂特別研究員が、宝永の大火(1708年)以前から「蛤門」の名称が使われていたことを発見しました。さらに、宝永をさかのぼる、延宝5年(1677年)に、「蛤門」が開いている状態で古地図に描かれている事実も突き止めました。従来の定説を覆す、大きな発見となります。

「蛤(はまぐり)御門」とは、京都が大火に見舞われた時には、朝廷が業火に逃げ惑う京の民を思いやり、内裏の惣御門を開放し、皇室、公家が住まう禁裏御所周辺を避難所として解放したとされています。その惣御門の一つに「新在家御門」があり、禁裏御所の南西側に所在したこの門が、火災に際して、ハマグリが焼かれると貝殻を開くことに例えて、通称「蛤御門」と呼ばれてきました。

これまで、この門は普段は閉じられていると解され、これが開かれたのは、天明8年(1788年)、天明の大火の折とされてきました。その後に、湯口 誠一氏が、すでに宝永6年(1709年)刊行の「内裏之図」に「はまくり門」と明記されていること、嘉永7年(1854年)に作成された「親町要用亀鑑録」には、宝永の大火(宝永5年)の後に、「蛤御門」と命名されたと明記されていることを根拠に、天明の大火は誤りで、これをさかのぼる宝永の大火によって、「蛤御門」と呼ばれたのだという新説を提出しました。湯口氏の説は、京都市歴史資料館のお墨付きも得て定説とされ、蛤御門の駒札解説文は「天明の大火」から「宝永の大火」へと書き替えられ、確実な説として今日に至っています。

ところが、長谷 桂特別客員研究員は、元禄7年(1694年)頃に成立した「京都役所方覚書」の中に「蛤御門番弐人」の記述がすでにあることを確認し、また公家の日記「日野輝光卿記」の宝永の大火前年の宝永4年(1707年)8月の記述の中に「祭礼通候間蛤門さし人止也」と上御霊神社の祭礼行列が通る間は蛤門の通行が一時的に止められていたことを確認しました。さらに、宝永をさかのぼる、延宝5年(1677年)に作成された古地図「新改内裏之図」には「蛤門」が開いている状態で描かれている事実も突き止め、本来の由来の謎を解く、新たな発見となりました。

▲京都産業大学 日本文化研究所 特別客員研究員について

京都産業大学では京都の活性化に貢献するため、京都商工会議所と協力し2006年から「京都・観光文化検定試験」1 級合格者を本学日本文化研究所の特別客員研究員として受け入れています。平成 27 年度は12人の特別客員研究員が研究活動を行いました。

【研究内容】

・「渡来人の正体」ー京都を取り巻く渡来人のルーツを探るー

・1000年の都・京のうんちくの探究

・守貞謾稿に見る江戸期の貨幣制度

・京都と奈良の交通史をたどる~平安時代から江戸時代まで

・京都の科学技術史、偉人研究ーからくり儀右衛門と四条烏丸「機巧堂」ー

・中世絵巻・説話に見る民衆意識の豊かさと活力を求めて

・伏見の歴史(武家政権による伏見の繁栄と衰退及び復興)

・「花」との係わり合いを通じた京都文化の研究

・蛤御門の名前の由来について

・祗園~祗園と八坂神社、花街~

・冠者殿社の由緒

・上賀茂最古の神社「大田神社」の本質を探る

むすんで、うみだす。 上賀茂・神山 京都産業大学

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